『菅原道真君の死に様』

 小学二年生のときに出会った男の子を、私はこれから先の人生でも決して忘れないだろう。

 彼は菅原道真くんという名前だった。菅原くんの両親は、自分たちの子供に菅原道真のような逸材になって欲しいと思い、この名前をつけたのだろう。

 しかし残念なことに、菅原くんの頭のネジは数十本ほど無かった。四六時中よだれを垂らしていたし、ストローのまともな使い方が分からず、牛乳を飲んでは鼻から垂れ流していた。自分ではトイレをすることも難儀らしく、小学二年生になってさえも、トイレで漏らすべきさまざまなものを、しょっちゅう教室で漏らしていた。

 逸材かと問われれば、菅原くんはある意味逸材にちがいない。ちなみに、菅原くんの両親も、自分の子供に偉人の名前をつけることの愚を悟ったのか、菅原道真くんの弟の名前は「亮二」というありきたりな名前になった。

 とにかく、菅原くんは不潔きわまりない少年ではあったものの、かといっていじめられていたというわけでもなかった(もっとも、菅原くんがうすのろであることにつけこみ、鬼ごっこで頻繁に菅原くんに鬼の役をやらせていた奴らの行いを「いじめ」と呼ぶのならば話は別だが)。ネジが数十本ほど抜けている程度の不具合は、小学校低学年のうちは大した問題にならないのである。

 とはいえ、日常の生活に菅原くんが不便を感じないでいられるかといえば、それはどだいムリな話だった。そんな菅原くんをとりわけ苦しめたのが、九九だった。「手の指・足の指以上の数を、菅原君が数えられたかどうか?」という刑而上学的問題は一旦置くとしても、菅原くんの演算能力はまったく貧困プアだった。

 算数の授業が先へ進むにつれ、菅原くんは問題を間違えまくるようになり、菅原くんが答える段階になると、生徒が全員「違います」というようになり、挙げ句、菅原くんの算数ドリルは赤鉛筆の×印で真っ赤になっていった。

 そんなある日の、算数の授業のときである。

「それでは皆さん、隣の人と一緒に答えあわせをしてみましょう――」

 と、先生が号令をかけた。何の因果かは分からないが、この先生は藤原先生という名前だった。物腰の柔らかそうな、若い女の先生だったが、彼女が菅原くんに手を焼いていたという話は、だいぶ後になってから聞かされた。

 幸か不幸か、私は菅原くんと隣同士であったために、彼と一緒に答えあわせをすることとなった。ドリルでは6×1から順に6×10までの計算問題が用意されていたが、菅原くんはものの見事にすべて間違えていた。

 菅原くんが間違えるのは珍しいことではなかったので、私はすました顔で菅原くんのドリルに×印をつけていった。

 「6×10=16」という答案に×をつけた段階で、私は傍らから注がれる視線に気づいた。

「うーん……」

 そこでは、藤原先生が神妙な顔をして菅原くんのドリルを覗きこんでいた。今にして思えば、「隣の人同士で答えあわせをする」というのは、藤原先生なりの苦肉の策だったのだろう。だが、菅原くんの逸材としてのレヴェルは、その程度の小手先の業ではビクともしなかった。

「そうね、村上さん(私のことである)は九九を覚えるのが早いから、ちょっと菅原くんに教えてあげましょうか?」

 私は藤原先生のことは好ましく思っていたため、二つ返事でうなずいた。藤原先生はちょっとした時間稼ぎのつもりだったのだろうが、その三十分後にはこの判断を後悔することになった。

 さっそく机を寄せると、私は菅原くんに九九の六の段を教えはじめた。

「6×1は、『6が1個ある』ってことだから――」

「6×2ってのは『6が2個に増えた』ってわけだから――」

 と、私はできる限り丁寧に教えたつもりだったが、菅原くんはそれに対して、ただアシカのように、

「あぅ、あぅ」

 と言っているだけだった。

 業を煮やした私は、菅原くんからノートを引ったくると、そこに丸を六つ並べてみせた。

「丸が六個、一列に並んでいるでしょ?」

「あぅ、あぅ」

 菅原くんに構わず、私は丸の列を一段増やした。

「ほら、二列になったら、丸は全部で十二個になったじゃない」

「あぅ、あぅ」

「菅原くんも数えてみてよ」

「あぅ、いち、に、さん……はち、きゅう……じゅういち、じゅうに」

「ね? だから『ロクニジュウニ』って――」

「あぅ、うああああああああああああああ???!!!」

 菅原くんが絶叫した。

「あああああああ???!!!」

 立ち上がると、菅原くんは私を突き飛ばし、

 机を突き飛ばし、

 棒立ちになっていた藤原先生を突き飛ばし、

 黒板を突き破り、

 壁を突き破り、

 隣の教室を突き破り、

 窓ガラスを突き破り、

 ベランダを突き破った。

 宙に飛び出した菅原くんは、物理法則に従ってそのまま落下し、果てたのである。

 私はそのとき頭を打っており、半ば意識を失いかけていた。だから、教室が騒然としていたことしか覚えていない。このあと、すぐさま全校集会が開かれ、生徒たちは集団での下校を余儀なくされた。泣き崩れる藤原先生の様子だけが、今も私の脳裏に焼きついている。

 九九を理解した菅原くんは、なぜ突き抜けていってしまったのか――。

 十年越しになってしまったが、私は一つの解答めいたものを見いだしたので、それを読み手の皆さまにも共有したい。

 九九を理解する前、おそらく菅原くんは神だったのではないだろうか。無論、菅原くんの世界秩序の中に「九九」という概念は無かったため、それはきっと不完全な世界だったにちがいない。しかし、それでも菅原くんは内的世界の神であって、菅原くんの見る世界は、すべて秩序だっていたのではないだろうか。

 調和を保っていたはずの彼の世界に「九九」が持ち込まれた際の衝撃はいかばかりのものだったのか――。それを適切に理解することは、私にはできないだろう(世界の誰だって、そんなことはできやしないだろう)。待ち受けていたのは、ナイフのように鋭いアハ体験と、シナプスの楽園への片道切符と、それまでの理性の完全なるリセットだったのだ。

 しかし、私は思うのだ。人間とは多かれ少なかれ、自分が抱く内的世界の神なのではないのだろうか。私たちは知らぬうちにある常識を廃して、そうして世界をうまく丸め込んでしまっているのではないだろうか。そして、ある常識が他者からもたらされたとき、私たちは自らが作った円環の壁を壊し、人間の正気から神の狂気へと、軽々と移動してしまうのではないだろうか。

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