第7話:煩悩

「いまいましい!」

 エリジャ姫の即位式が終了した、翌日の夜。王室の敷地にある一つの宮殿内で、痰壺に向かって吠えるひとりの男がいた。内大臣のサウルである。

「エリジャめ、小娘の分際で、私を愚弄するとは……!」

 腹立たしいことがあると、この内大臣は痰壺を抱え込み、そこに怨嗟の言葉を投げつけるという、陰湿な癖があった。

 サウルの怒りの矛先は、きのう国王に就任したばかりのいとこ・エリジャ女王に向けられていた。

 王国の古い慣習にしたがい、エリジャ女王は貴族の人事を刷新する必要があった。

 まずは左大臣のカシム。カシムは高齢でこそあったものの、バンドリカの宮廷内で隠然たる影響力を誇っていた。エリジャ女王もおそらく、内心ではカシムの存在を快く思ってはいまい。ただ、影の実力者と対立したところで、すぐに新女王の立場が悪くなることは火を見るよりあきらかである。

 エリジャもそのことは十分承知しているのだろう。カシムは左大臣の職に留任し、「高齢であること」を理由に、国璽尚書の職務のみを離れるという、控えめな人事にとどまった。

 ここまでならば、サウルだって納得できる。

 問題はその次、右大臣カルフィヌスの処遇であった。

「あの凡骨が右大臣に留任だと?! バカな!」

 「右大臣のカルフィヌスは無能だから、これ以上大臣の職に居座ることはできないだろう」というのが、貴族たちのもっぱらの意見だった。カルフィヌスが退任したら、これまでの慣例にしたがい、サウルが次の右大臣となる予定だった。サウルもそのことを見越して、右大臣就任の準備を着々と進めていた。

 ところが、大方の予想に反し、カルフィヌスは右大臣の職に留任することが決定された。それだけではない。カルフィヌスは左大臣のカシムから、国璽尚書の位までをも譲られたのである。

 「右大臣に就任する」という、サウルの望みは絶たれた。しかし、その程度のことならば、サウルはまだ堪えるつもりでいた。どう取り繕ったところで、カルフィヌスが宮中行事で数々の失態を犯していることは紛れもない事実である。なるほどカルフィヌスはカシムの娘を嫁にもらっているから、カシムから有形無形の援助はあろう。しかしカシムが死んでしまえば、カルフィヌスの後ろ盾はだれもいなくなる。そうなればサウルにとって、カルフィヌスを蹴落とすことなどは造作もない――はずだった。

「おのれ……!」

 痰壺を抱え込むサウルの指が、力を込めすぎて白くなる。

 容赦ない人事は、内大臣のサウルに対しても向けられた。サウルは内大臣の職にこそ無事とどまることができたものの、特別に兼務が認められていた近衛長官の職務には、再任が許されなかった。

 この問題は、サウルにとって重大だった。内大臣と近衛長官との兼務が認められていたのは、ひとえにサウルが王族の出身だからだ。サウルはエリジャ姫のいとこであり、いまは亡きサリマン王の甥にあたる。サウルが臣下に降っているのは、ひとえにサウルの父親が庶長子だったからにすぎない。

 いま特別待遇が認められなくなったということは、すなわちサウルが今後、並の貴族と同等に扱われるということを意味する。王族に連なる出自ということがプライドだったサウルにとって、このことは我慢ができなかった。

 更に許せないのは、誰が近衛長官に就任するのか、ということだった。

「ロオジエ……あの若造が……!」

 次期近衛長官は、ロオジエという若者だった。何を隠そう、右大臣カルフィヌスの息子であり、カシムの孫だった。

 カルフィヌスが無能という意味で悪ならば、このロオジエは別の意味で悪だった。ロオジエが王都で繰り広げているらんちき騒ぎは、サウルも耳にしている。ロオジエはとてつもない放蕩息子だが、親の七光りのおかげで、順調に出世しているのである。

 左大臣カシムの娘二人のうち、一人はサリマン王の后となり、エリジャとオルタンスとを生んでいる。もう一人は右大臣カルフィヌスの妻となり、その息子がロオジエである。エリジャが王となり、ロオジエの近衛長官就任が現実となったいま、王室の中枢から外されているのは、内大臣である自分だけなのだ。

 この状態が続けば、サウルの昇進は絶望的である。それどころか、見下していたはずのロオジエに昇進で抜かされる可能性も十分にありえる。

「ああ、クソッ!」

 痰壺の中には収まりきらないほどのサウルの怒号が、宮殿の一室を震わせた。

 憎たらしいのは、エリジャ女王とカルフィヌスである。エリジャは人気こそ高いものの、たいした政治はできないというのがサウルの意見だった。彼女がもてはやされているのは、ただ単純にエリジャの血筋が正統だからというだけにすぎない。

 カルフィヌスも同様である。儀式のたびに失態を犯しているかれが、これまで無事に右大臣にまで昇れたのは、ひとえにかれが実力者のカシムと縁故関係にあるだけにすぎない。

 はるかに実力が劣るだろうふたりの人間が、サウルの野望をことごとく打ち砕いているのである。

「ええい! いったいどうすれば――!」

(――サウル)

 頭に血が上っていたサウルの耳に、か細い男の声が響いてきた。サウルはぎょっとして、あたりを見回してみる。

「な、何だ?!」

(サウル、こちらだ)

 声のする方角に、サウルは振り向いてみせる。しかし、人の姿はなかった。

「おのれ、もののけだな?! この私を侮るとは!」

 サウルは手を伸ばすと、壁に掛けられた剣を抜きはなった。窓から差し込む月光を浴びて、刀身が冷たく光る。

「姿を見せろ、もののけめ……!」

「怖れるな、サウル」

 男の声は、サウルの真後ろから聞こえてきた。

「くらえ――!」

 とっさに振り向くと、サウルは握りしめた剣を大きく振りかぶった。たしかな手ごたえとともに、衣を裂くような鋭い金属音が、サウルの耳にこだました。

「バカな……?!」

 跳ね返ってきた衝撃の大きさに、サウルは思わず尻餅をつく。もののけを捉えたはずの剣は、根元から直角に折れ曲がって、サウルの足下に転がった。

「サウル、怖れることはない」

 サウルの目の前に立つ人物は、穏やかな男の声でそう告げた。

 ただし声の主は、少女の姿をしている。

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