「ああ、クソッ、どうすれば……」
従者を強引に下がらせると、サウルは手にしていた書状をくしゃくしゃに丸め、そのまま床に叩きつけた。叩きつけられた書状は鳥のフンにまみれ、周囲を飛び交っていたハエが、一斉にそれに群がった。
書状は、王都に向かって軍隊が進行していることを伝えるものだった。軍隊はもっぱらカシムの私兵から構成されているという。しかし、兵士たちがかつぎ上げているのは、あのエリジャ姫だというのだ。
「サウル、そのように浮かない顔をして、いったいどうしたのです? ――笑いましょう!」
頭を抱えているサウルを尻目に、エリジャの妹、気の狂ったオルタンス女王は、鳥かごを頭の上に掲げたまま大声で笑っていた。
「はっ! はっ! はっ――と笑う息! ほら、サウル、あなたも! はっ! はっ! はっ――」
笑いながら、オルタンスは掲げた鳥かごを揺らす。揺らすたびに鳥かごが音を立てるのは、中に鳥の頭蓋骨が大量に詰まっているからだ。オルタンスが鳥かごを振るたびに、かごのすき間からこぼれ落ちた骨が、乾いた音を床に響かせた。
「ハ……ハハ……」
「もっと笑って!」
「ハハハ……ハハハ……!」
狂気にとりつかれたオルタンスの前に、サウルはなすすべがなかった。鳥のフンと死骸との中で、一人軽やかな足取りで踊っているオルタンスからは、サウルの力量では推し量ることもできないほどの、莫大な魔力がにじみ出ている。彼女の気まぐれな精神を逆なでしたら、その瞬間にもう自分の命はないだろうということを、サウルはよく知っていた。
「ほら、サウル!」
骨の詰まった鳥かごを、オルタンスが突然投げ捨てる。
「もっと笑って――」
次の瞬間、オルタンスは絹を裂くような鋭い悲鳴を上げた。その声があまりにもかん高かったために、サウルの全身は鳥肌に覆われたほどだった。悲鳴を上げ終えると、オルタンスは目を閉じ、そのまま床に倒れ伏した。
「ああっ、クソッ、何なんだ――?!」
だが、悪態をつき終えたころには、サウルにもオルタンスが気絶した理由が分かった。ついさっきまでオルタンスが立っていたところには、白い衣に身をまとった少女が佇んでいる。――オルタンスの狂気の元凶・賢者ヲンリである。
「ヲンリ……?!」
そしてヲンリは、今のサウルの人生を狂わせている元凶でもある。
「サウル、怖れるのはやめなさい。ぎこちない生活は、お前もうんざりだろう」
ヲンリは、その外見からは想像もつかないような老人の声で、サウルをさとした。
「う、うんざりだと? ――こんなことになるくらいなら、はじめから王位など望まなかったものを!」
これがサウルの本音だった。エリジャを追放すれば、すべてがうまくいく……サウルは初め、そう信じていた。ところが実際はどうだろう。このままでは、それまでに築きあげてきた富や名声はおろか、生命さえも危うくなってしまいかねないところに、今のサウルは追い詰められているのだ。国外への亡命も何度か考えたものの、すでにカシムが手を回しており、サウルにはその手がかりさえ与えられていなかった。
「サウル、過去へ目を向けるのはやめなさい。たとえ過去に戻ったとしても、お前は自分の生をもう一度歩むことなどできない――」
光の宿っていないヲンリの濁った瞳が、両目別々にせわしなく動く。うなだれているサウルのことなど、ヲンリはまるで意に介していないようだった。
「未来に対するあこがれの方が、未来そのものよりも豊かなこともあろう。想像裡の最も望ましい未来を選んだとしても、お前はそれ以外の望ましい未来を諦めねばならないのだから。それにサウル、お前の宿願は果たされていないはずだ」
最後の言葉を聞いたサウルは、思わずヲンリの方をふり向いた。
「ど、どういうことだ?!」
「サウル、まだお前は王ではあるまい」
ヲンリが、自らの左手を肩の高さまで上げた。それにつられ、オルタンスの身体も宙に浮いた。
「この娘と結ばれて、お前ははじめてこの国の王となるだろう」
「こ、この娘と……?」
「さよう。サウル、私の力は、この娘の前ではいかにもぎこちない」
「ち、力をくれると申すか?!」
「いかにも。私の力をお前に着せてやろう」
ヲンリが言い終わらないうちに、サウルは着物の裾が鳥のフンにまみれるのも構わず、その場にひれ伏した。
「た、頼む! 力を貸してくれ、何としてでも――!」
「よろしい、サウル、」
こう言っているとき、ヲンリは唇を横に伸ばすようにして、薄く笑っていたのだが、
「お前の願いを聞き届けよう――」
それは当然、ひれ伏しているサウルには分からなかった。
「さらばだ、サウル。一つだけ忠告しておこう――」
ヲンリの凍てついた光に、サウルの身体が刺し貫かれてゆく。
「赤い衣をまとった者がお前の前に立ちはだかったとき――それがお前の死ぬときとなるだろう。それでは、さらば」
サウルは光のまぶしさに目がくらみ、またその光が奏でる魔力の強さに酔いしれ、恍惚としていた。次にサウルが目を開けたときには、ヲンリの姿は影も形もなくなっていた。
「フ、フフフ……」
しかし、ヲンリがどこに消えようと、今のサウルにとっては些末な問題だった。サウルが指を曲げると、オルタンスの細い身体がサウルの方へひき寄せられてきた。
「いいだろう……ようし……お前を愛してやろう……」
「――さ、サウル殿、ヨルム様がお見えです!」
従者が一人、サウルのところまでやってきた。オルタンスを抱きかかえている主君にどう接すればよいのか分からず、その従者は伏し目がちだった。
「ここまで通せ……」
しばらくしてすぐに、従者はヨルムを先導して戻ってきた。オルタンスを抱きかかえているサウルを見て、ヨルムはあからさまに顔をしかめていた。
「サウル殿、いったいどうなされたというのです?」
目を細めながら、ヨルムが言った。その語気は、サウルの正気を疑っているかのような、軽蔑の調子がうかがえた。
「あなたともあろう方が、鳥の糞に衣を汚すなどと……」
「ヨルム……貴様、死ぬのが怖いことはあるか?」
「……は?」
「――従者よ、お前が証人だ。ようく見ておけ」
傍らで唇を引きむすんでいる従者に目配せすると、サウルはみなぎる魔力を自らの手に集中させた。サウルに局在化した魔力の影響で、周囲には冷気が立ち込める。
「これは……」
ヨルムが息を呑んでいる様が、サウルにも分かった。たぎる魔力によって、サウルの周辺の空間が、小刻みに振動する。
このとき、サウルはただひたすら、自分自身の全能感に酔いしれていた。今までに持ったこともないような、強烈な魔力である。なるほど、心の弱いオルタンスならば、この力をもてあまし、狂気の中に溺れてしまったのもうなずける。
しかし、自分はちがう、と、サウルは自分自身に言い聞かせた。自分はヲンリに選ばれた、この国の王である。いや、この魔力を我が物とした以上、世界をこの手に収めることもたやすい――。
邪魔な虫けらには、この場で消えてもらう。サウルはヨルムをにらみつけた。
「味わえ……!」
大きく振りかぶって、サウルはみずからの腕をヨルムに突きだした。極太の黒い稲妻がヨルムに殺到し、その身体と、その影とをなぎ倒した。雷鳴で塔全体が震え、周囲を飛んでいたハエの群れは、振動に耐えきれずに消し飛び、灰となった。
「ハハハ……!」
ヨルムの姿は、完全にかき消えてしまっていた。まるで、初めからこの世界になど存在していなかったかのようだ。
「フフフ……すばらしい、すばらしいぞ……! エリジャよ、いつでも来い。相手になってやる――」
サウルの高笑いが、塔の中にこだました。