第20話:賢者ヂョゼ

 アースラがはじめに知覚したのは、深い静寂だった。全身がきしむせいで、起き上がることはできない。それどころか、まぶたにはおもりがついているようで、目を開けることさえままならなかった。周囲からは、血なまぐさいにおいが立ちこめてくる。やがてアースラは、それが自分の身体から流れ出た血であると、ふと気づいた。

 自分は乞食になりすまし、エリジャ姫の下へ向かった。同行を認められるも、すぐにサウルの追っ手がやって来て、戦うはめになった。敵は逃げ去り、エリジャ姫は命拾いして、自分は――。

 自分は?

(そうか、)

 アースラは、ここで漠然と思い知った。

(わたしは、死んだはずなんだ――)

 無意識的に動かされたアースラの左手の指が、血を吸った砂利を掻く。

◇◇◇

 永遠とも思える長い一瞬が過ぎ去った後、ふとアースラの耳に

――ザッ、ザッ。

 という音が聞こえてきた。何者かが砂利を踏みしめながら、こちらへと近づいてくるようだった。

 なけなしの力を振りしぼって、アースラは目を開けた。もしエリジャ姫ならば、せめて最期にその姿を見たい、もし敵ならば、そいつの瞳を射すくめるようなまなざしを送り、一矢報いたい――アースラはそんな気持ちだった。

――ザッ、ザッ。

 アースラの手前で、足音が止まる。今やアースラの眼前にも、足音の主の姿は明らかだった。

 ひとりの少女が、アースラを見下ろしている。エリジャ姫でもなければ、アースラが憎むべき敵でもなかった。白髪をなびかせ、白磁のように凍てついた肌の色をした少女が、太陽のような金色の瞳をもって、アースラを見つめていた。彼女の姿が闇に溶けて見えなかったのは、彼女が喪服を着ていたためだ。

 喪服以外にも、少女には異様な特徴があった。喪服のあちこちから風車が飛び出しており、それらは風もないのに、反時計回りに回転していた。服に風車がついている、というより、大小の風車が、少女の身体を縦横無尽に刺し貫いているようだった。

「喜ぼう」

 首をかしげてアースラを見下ろしていた少女が、とうとう口を開いた。その声は、齢をかさねた男性のような声だった。

「わたしはなんと結構なすなどりをしたことだろう。人間を得ることなく、ひとつの死体を手に入れたのだから。だから月よ、人臭さを恐れるおまえの天体よ、どうかわたしをこといでおくれ。わたしに認められることがなかったのならば、おまえもわたしも、どうして寂しくないことがあるだろう?」

(やはり、自分は死んだのか――)

 滔々と語る少女の言葉を耳にしながら、アースラはそう考えた。少女は死者の言葉を語れる存在、死に神なのだろう。いま、死に神がアースラの下へやって来て、アースラを死の世界へと連れ去ろうとしているのだ。

 そのときふと、アースラの脳裡に、エリジャの姿が浮かんだ。遠い昔、まだほんの子どもだった頃の記憶が、アースラの中によみがえってくる。そのとき、エリジャとアースラは、なぜかイチジクの実を互いに取っては、相手に食べさせる遊びをしていた。

 口に入りかけた亜麻色の髪を邪険にし、エリジャ姫はアースラの口にイチジクを運ぶ。イチジクの甘酸っぱさと、口元に触れたエリジャの親指の暖かさ。

(エリジャ様……)

 アースラの瞳から、涙がこぼれ落ちた。

いし、この世に未練があるな?」

 アースラの涙をじっと見つめていた少女が、唐突にアースラに尋ねた。アースラはもちろん、答えることができないでいた。しかし少女はそんなことを意に介していないのか、目を閉じ、何かを考えているようだった。

 やがて目を開けると、少女は言った。

いしのその怒り、いしのそのかなしみ……。エリジャが心配か?」

 アースラは目をみはった。アースラの気持ちを、少女はことごとく見抜いているようだった。

(この人は……)

「わたしはヂョゼ、と人に呼ばれている」

 アースラの思念を見抜き、少女――ヂョゼは、先回りして答えた。ヂョゼ――その名前を知らない魔法使いなど、この王国にひとりもいないだろう。この世界を創り出した双子の賢者の、妹にあたる方である。

(ヂョゼ様……!)

 心の中で、アースラはヂョゼに訴えた。

(エリジャ様に、どうかエリジャ様に、力をお貸しください!)

「世界を創り出すほどたやすくは、わたしは人を救えない」

 ヂョゼは言った。

「しかし、もしいしが望むのならば、わたしの力を汝いしに授けよう。ただしその力のために、いしは大いに苦しむこととなるだろう。いし、かなしみが尽きることをかなしむ覚悟はあるか?」

(力をお与えください!)

 心の中で、アースラは叫んだ。

(そのために、この魂が消え去ってしまうのならば、望むところです!)

「結構。ならばアースラよ、おまえはわたしの力を着て、もう一度この世に羽ばたくと良い」

 ヂョゼはここに来て、初めてアースラを「いし」ではなく、幾分かましな「おまえ」と呼んだ。しかしそのことに、アースラは気づかなかった。いや、気づく間もなかった、と言った方が正しいだろう。ジョゼがすべての言葉を言い終わらないうちに、アースラの身体は内側からエネルギーに満たされていったためだ。

「ヂョゼ様、感謝いたします!」

 ヂョゼの姿を確かめることさえせず、アースラは駆けだしていた。全身にみなぎっている力と比べ、アースラは自らの歩みがあまりにも遅いような気がしてならなかった。エリジャが去って行っただろう方角を見極めると、アースラは月夜の闇の中に走り去っていった。

◇◇◇

「アースラよ、おまえのその喜びは嘘だ」

 アースラの姿が完全に見えなくなってから、ヂョゼはひとり呟いた。

「アースラよ、おまえがエリジャに与えていた愛を、せめてその一部だけでも、自分に与えていればよかったのに」

 ヂョゼはそう言い捨てると、もと来た道を引き返していった。

 月のまぶしい夜だった。砂漠の砂がつくり出す影は、いつにもまして濃かった。誰もいない砂漠を風が通り、ただ風車だけが乾いた音を立てた。

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