「ご主人様、起きてくだされ!」
鬼気迫る乞食の声に、エリジャは飛び起きた。
「何?! 何があったの?!」
「夜盗です! エリジャ様、これを!」
(夜盗ですって――)
乞食から投げ渡された一振りの剣を、エリジャは鞘から抜きはなった。長剣の刀身が、月光を受けて冷たく光る。
そのときふと、エリジャはあることに気づいた。
「乞食、どうして私の名前を……?!」
「……見つけた!」
乞食からの答えが返ってくる代わりに、エリジャの耳に、野太い男の声が聞こえてきた。エリジャが振り向いてみると、覆面をかぶった男が鉈を構えている。
「お前がエリジャ姫だな?」
「あなたは誰?!」
「お前の知ったことか。首に懸けられた賞金は俺のものだ――」
鉈を掲げると、男は力任せに振りかぶった。エリジャは床を蹴って横に飛び、男の攻撃をかわす。標的を見失ってたたらを踏んでいる男の首筋めがけ、エリジャは剣を薙いだ。
「それっ――」
「あっ――」
エリジャの耳が悲鳴を捉えたときにはもう、男の頭はその身体から離れてしまっていた。
「ハァ、ハァ――」
男の頭が床に着地したのと、エリジャが尻餅をついたのとは、ほぼ同時だった。実戦で剣を振るったのは、エリジャにとってこれがはじめてだった。肉を断ち切る際に、腕に伝わってきたこの重み、ついさっきまで生きていたのに、今は横たわっている男の死体。――エリジャが尻餅をついたのは、自分の行動の結果に、思わず脚がすくんだからだった。
しかし、いつまでも動揺している暇は、エリジャには与えられなかった。馬車に伝わる振動が、一段と大きくなってくる。
「――うわっ?!」
立ち上がることもままならず、エリジャは馬車の壁面に衝突する。馬のいななき声が響き、人々の悲鳴が重なり合い、ガラスの砕け散る音がして、砂がエリジャの肌に当たる。馬車が横転して、砂漠のくぼみの中に落ち込もうとしているのだ。馬車の中にいたエリジャは、なすすべもなくあちこちに身体をぶつけるしかなかった。
「うっ……?!」
立ち上がろうとした矢先、エリジャまで駆け寄ってきた男が、エリジャに掴みかかってきた。
「は、離しなさい!」
「女だな、へっへっへ……」
黄色い歯をむき出しにしながら、男はエリジャの上に覆い被さり、エリジャの服を引き裂こうとする。エリジャは背筋の凍る思いだった。この男は、エリジャを陵辱しようとしているのだ。
男の腕が、エリジャの胸を、服の上から鷲掴みにする。
「離せ……っ!」
右脚を折り曲げると、エリジャはかかとで男の胸を蹴った。
「がッ?! こいつ――」
エリジャに注いでいた男の視線が、好奇から殺意へと変わる。エリジャの白くて細い喉に手をやると、男は万力のように首を締めてきた。
悲鳴をあげようにも、エリジャはそれができない。男の腕から伝わってくる力は、ほとんどエリジャの首をへし折りかねない勢いだった。エリジャの視界はたちどころに暗くぼやけはじめ、手足の先端もしびれてくる。
痙攣しかかっていたエリジャの右手が、何か棒のようなものに触れた。ぼやけた視界の中で目を凝らせば、それは砂漠に刺さっていた、無数の風車の一つだった。
その軸を握りしめると、エリジャは風車を男めがけて振りかぶった。次の瞬間、男は悲鳴を上げてエリジャを突き飛ばすと、そのまま砂の中に崩れ落ち、動かなくなった。エリジャの振りかぶった風車の軸が目に刺さり、そのまま眼球を突き破り、男の脳天を貫いたのだ。
「――やあっ!」
剣を支えにして、やっとの思いで立ち上がったエリジャの耳に、聞き覚えのあるかけ声が響いた。続いて、冷たいはずの砂漠の夜気の中から、かすかな熱が到来し、エリジャの肌をなでた。
「乞食!」
繰り広げられている光景を見て、エリジャは目をみはった。一人の男が火柱となり、乞食の側でどっと倒れた。乞食は真ん中から折れた剣を投げ捨て、自分めがけて掴みかかってきた男ともみ合いになっている。
男の手が、乞食が頭にかぶっているぼろきれを掴み、砂にたたきつけた。乞食の頭から、真珠色の長い髪の毛がこぼれ落ちる。
「まさか、そんな――!」
心臓が飛び出してしまうのではないかと思うくらい、エリジャは驚いた。覆面の下から顔を出したのは、他ならぬエリジャの親友・アースラだった。
ここに来てエリジャは、遅まきながらもすべてを悟った。アースラは乞食に化けて、ずっとエリジャのことを追ってきていたのだ。
アースラは必死になって、男から距離を取ろうとしている。今ここで火の魔法を放ったら、アースラ自身も炎の餌食となってしまうからだ。
そんなアースラを逃すまいとしつつも、夜盗が自らのふところをまさぐっているところが、エリジャからはよく分かった。
「あっ――」
エリジャは思わず声を上げた。男が振りかざしているのは、月光に鈍くきらめく匕首だったからだ。
「アースラ!」
エリジャは叫んだ。しかしエリジャが叫ぶよりも、アースラめがけて匕首が振り下ろされる方が早かった。アースラの表情が苦悶にゆがむ。そして次の瞬間、アースラの手前で炎が不規則に幕を広げ、アースラと夜盗とを代わる代わる包んだ。
炎に怯えた夜盗が、慌てて逃げようとして、砂に脚を取られる。アースラと夜盗とは、互いにもつれ合ったまま、砂のくぼみの中へと転げ落ち、エリジャの視界から消え去った。
「アースラ……!」
痛む身体に鞭を打ちながら、エリジャもアースラたちが転げ落ちた方角へと歩みを進めた。砂が靴の中に入り込むのも構わず、エリジャはがむしゃらに砂丘のうねりをかき分けてゆく。
周囲には、馬車の残骸が散らばっている。兵士たちは皆死んでおり、夜盗もまた折り重なって倒れていた。
「アースラ……アースラ……!」
何度も友の名を口にしながら、エリジャは砂丘のくぼみへと近づいた。くぼみの奥底では、アースラが両手両脚を投げ出して、仰向けに倒れていた。その隣では、火柱が煌々と燃えさかっている。アースラの振りしぼった魔力が、夜盗の腕力に勝ったのだ。
「アースラ、アースラ、しっかりして!」
アースラの側まで駆け寄ると、エリジャもその場に倒れ伏した。身体は節々が痛く、砂のせいで前へ進めないにもかかわらず、心だけが急いていた結果だった。
「あ……陛下……」
アースラの肌は、紙のように白かった。彼女の右胸には、匕首が斜めに突き刺さっていた。周囲に溢れた血を吸って、砂漠の砂が赤黒く染まっている。
一陣の風が吹いて、風車が音を立てた。
「アースラ、アースラ、しっかりして……!」
「へ、陛下……私は……幸せです……こうして……陛下に……」
「それ以上喋らないで、喋っちゃダメ!」
「陛下……エリジャ様……」
左腕を突き出すと、アースラはエリジャに何かを手渡そうとする。受け取ってみればそれは、赤いイチジクの実だった。結局アースラは、イチジクの実を食べず、エリジャのために取っておいたのだ。
「エリジャ様……」
アースラの目尻からは、涙が溢れていた。
「わ、わたしは……エリジャ様の従者でいられて……し、幸せでした……本当に……幸せでした……エリジャ様……愛しています……」
アースラの言葉は、ほとんど消え入りそうなほどだった。嗚咽をこらえながら、エリジャはアースラの近くまで顔を寄せた。
「アースラ……悲しいこと言わないで……私も……あなたと友達でいられて……本当によかったと思ってるんだから……! 本当よ……? だから……アースラ!」
吹き寄せる風を抱いて、砂漠に刺さる無数の風車が羽音を立てる。そのただ中で、アースラは永遠の眠りについた。
「うっ……うっ……!」
アースラの亡骸を抱きしめながら、エリジャはひとり泣いていた。友がもうこの世にいないことの悲しみ、砂漠に取り残されたことの孤独、そして自分たちをこのような目に追いやった者たちへの怒りが、エリジャの心の中で混じり合い、大きなうねりとなりつつあった。
そのときだった、
「おい、いたぞ……!」
背後から声が迫ってきたかと思うと、声の主は乱暴に、エリジャを自分の方角へ向けなおした。
「エリジャ姫だな?」
声を掛けた男は、泣きはらしているエリジャに気圧されているようだった。
「やけに遅いと思って出向いたらこのざまだ……すぐに伝令を王都までやろう」
エリジャの脇をすり抜け、別の男がアースラの側に立った。それを見て、エリジャの頭に血が昇る。
「――近づかないで!」
「あっ、待て! おい、やめろ!」
自分を捕らえようとする男の指に、エリジャはすかさずかみついた。
「ああ、なんてことだ! 気でも狂ったんじゃないか?!」
「おい、手伝うぞ、相当気が立ってる――」
男はエリジャの脚を取ると、そのままエリジャを砂に押し倒した。
「は、離して――」
「護送するぞ。気をつけろ。自分で自分を殺しかねない勢いだ」
「アースラ!」
両脇を兵士たちに抱えられながらも、エリジャはアースラの名を叫んだ。砂漠の夜空には星が展開し、ただ天体だけがエリジャの証人だった。