第1話:王の死

 壁越しに聞こえてくる大勢の足音を耳にして、オルタンスは目を覚ました。窓に視線を注げば、月はまだ夜空にかかっている。

 いまは夜中。それなのにどうして、こんなにも騒がしいのか? オルタンスはベッドから抜け出すと、扉を開いて、すき間から外の様子を眺めた。外では、貴族とその従者たちが、慌ただしく廊下を通り抜けていく最中だった。

 叫び声と鐘の音が、ひっきりなしにオルタンスの耳にも押し寄せてくる。怖くなったオルタンスは、そのまま扉を閉め、ベッドにもぐり込もうかと考えた。しかしそのとき、オルタンスの耳に、若い貴族の声が飛び込んできた。

「陛下がおかくれになられたとはまことか?」

「そのようだ。つまりエリジャ姫が、次の王に――」

(おとうさまが――?!)

 心臓をわしづかみにされたような気がして、オルタンスは小さく声を上げた。あたりの景色が自分から遠ざかっていくように、オルタンスには感じられる。オルタンスの脚は、しぜんと震えだした。

 オルタンスはこの十日間というもの、父親に会えていない。父のサリマン王が、熱病に伏せっていたからである。それがまさか、こんなにも早く亡くなってしまうなんて――。

 するととつぜん、部屋の扉が開け放たれた。ひとりの人物が部屋へと入り込み、立ちすくんでいるオルタンスの体を抱きよせ、その頭をそっと撫でる。

「オルタンス、心配しないで」

 声を聞いたオルタンスは、目頭が熱くなってくる。

「あ……おねえさま……」

 オルタンスを抱きしめていたのは、オルタンスの姉・エリジャだった。

 エリジャとオルタンスは、サリマン王の娘だった。ふたりの母親、つまりサリマン王の王妃は、オルタンスを産み落としてすぐに、命を落としている。

 オルタンスにとって、エリジャはほとんど母親のような存在だった。エリジャがどこへ行くにしても、オルタンスは必ずエリジャの後をついて行った。そうしないと不安だったからだ。そしてオルタンスが困っているとき、エリジャはかならずオルタンスのそばにやって来て、オルタンスを守ってくれるのだ。

「うっ……うっ、おねえさま……」

「泣かないで、オルタンス。泣いちゃダメ」

 今回も、この一番不安なときに、やはりエリジャは自分のそばに来てくれた。――それだけで、オルタンスは救われたような気持ちになった。

 背中に回された姉の手のぬくもり、頬越しに伝わってくる、姉の暖かな心臓の鼓動――それらに抱かれて、これ以上恐れるものなど、いったい何があるというのだろう?

「大丈夫よ。私がいるから――」

 エリジャがすべてを言い終わらないうちに、オルタンスの部屋へ、早足で誰かが駆けつけてきた。

「……だれ?」

「殿下、こちらにおられましたか」

 禿げ頭の壮年の男性が、自らの冠を小脇に抱え、あたふたと額の汗をぬぐっていた。右大臣のカルフィヌスという男だ。

 オルタンスの肩に手を添えると、エリジャはカルフィヌスの方を向いた。このときになってはじめて、オルタンスはエリジャの目元が、薄い隈に覆われていることに気づいた。自分と同じように、あるいは自分の想像以上に、姉も弱っている――。そのことを知って、オルタンスは自分の足場が崩れていくような、宙に浮いたような気持ちにさらされた。

「身なりを整えなさい、右大臣」

 カルフィヌスの様子に、エリジャは眉をひそめている。

「いかなる事態であるとも、この王宮マハルで冠を脱ぐことは承知しません」

「は、し、失礼いたしました」

 カルフィヌスは取り乱しながら、慌てて冠をかぶり直す。右大臣のカルフィヌスは、歳で言えばサリマン王と同じくらいなのだから、エリジャなどは娘同然のはずである。それなのに、こうしてエリジャとカルフィヌスが並べば、エリジャの方がはるかに威厳があり、落ち着いているように、オルタンスには思えた。

「殿下、玉座の間へお出でくださいませ。家臣たちが――」

 カルフィヌスがすべてを言い終わらないうちに、誰かの足音が、それこそつむじ風のように、扉の向こうにある廊下から巻き起こった。

「であえ、であえーっ! 国王ご逝去――国王ご逝去!」

 伝令兵の叫び声が、王宮をいっそう震わせる。

「新国王、エリジャ陛下、万歳!」

「行かなくちゃ――」

 エリジャのささやきが、オルタンスの耳にも届く。

「おねえさま……?」

「心配しないで、オルタンス」

 オルタンスの側に膝をつくと、エリジャはオルタンスの両肩に手を添えた。

「ほんの少しのことよ。すぐに終わるから――」

「さ、殿下、こちらへ」

「私のことはいい。ひとりで行けます。どうぞオルタンスを連れていって」

 エリジャはそう言うと、背筋をまっすぐに伸ばしたまま、扉を開け放った。

「エリジャ様は、エリジャ様はどこに――?!」

「諸賢、私はここにいる」

 エリジャの鋭い声に、歓声が上がった。複数の貴族が周囲に殺到したために、エリジャの姿はあっという間に見えなくなる。

「さ、お姫様、おいでください」

 「お姫様」という物言いにむっとして、オルタンスはカルフィヌスを見上げた。しかしカルフィヌスは、「子ども扱いしないでほしい」というオルタンスの真意が見抜けなかったらしい。カルフィヌスはただ首を傾げたまま、オルタンスに手をさしのべるばかりだ。エリジャの前ではたじたじになっていたこの右大臣も、いざ自分だけになると、オルタンスを軽くあしらう。

(私も、おねえさまみたいに――)

 さしのべられた手を取らず、オルタンスは扉の向こう側へ出ようとする。カルフィヌスは面食らったようだが、オルタンスの少し前を歩きながら、オルタンスを玉座の間の二階へと案内した。

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