壁越しに聞こえてくる大勢の足音を耳にして、オルタンスは目を覚ました。窓に視線を注げば、月はまだ夜空にかかっている。
いまは夜中。それなのにどうして、こんなにも騒がしいのか? オルタンスはベッドから抜け出すと、扉を開いて、すき間から外の様子を眺めた。外では、貴族とその従者たちが、慌ただしく廊下を通り抜けていく最中だった。
叫び声と鐘の音が、ひっきりなしにオルタンスの耳にも押し寄せてくる。怖くなったオルタンスは、そのまま扉を閉め、ベッドにもぐり込もうかと考えた。しかしそのとき、オルタンスの耳に、若い貴族の声が飛び込んできた。
「陛下がおかくれになられたとはまことか?」
「そのようだ。つまりエリジャ姫が、次の王に――」
(おとうさまが――?!)
心臓をわしづかみにされたような気がして、オルタンスは小さく声を上げた。あたりの景色が自分から遠ざかっていくように、オルタンスには感じられる。オルタンスの脚は、しぜんと震えだした。
オルタンスはこの十日間というもの、父親に会えていない。父のサリマン王が、熱病に伏せっていたからである。それがまさか、こんなにも早く亡くなってしまうなんて――。
するととつぜん、部屋の扉が開け放たれた。ひとりの人物が部屋へと入り込み、立ちすくんでいるオルタンスの体を抱きよせ、その頭をそっと撫でる。
「オルタンス、心配しないで」
声を聞いたオルタンスは、目頭が熱くなってくる。
「あ……おねえさま……」
オルタンスを抱きしめていたのは、オルタンスの姉・エリジャだった。
エリジャとオルタンスは、サリマン王の娘だった。ふたりの母親、つまりサリマン王の王妃は、オルタンスを産み落としてすぐに、命を落としている。
オルタンスにとって、エリジャはほとんど母親のような存在だった。エリジャがどこへ行くにしても、オルタンスは必ずエリジャの後をついて行った。そうしないと不安だったからだ。そしてオルタンスが困っているとき、エリジャはかならずオルタンスのそばにやって来て、オルタンスを守ってくれるのだ。
「うっ……うっ、おねえさま……」
「泣かないで、オルタンス。泣いちゃダメ」
今回も、この一番不安なときに、やはりエリジャは自分のそばに来てくれた。――それだけで、オルタンスは救われたような気持ちになった。
背中に回された姉の手のぬくもり、頬越しに伝わってくる、姉の暖かな心臓の鼓動――それらに抱かれて、これ以上恐れるものなど、いったい何があるというのだろう?
「大丈夫よ。私がいるから――」
エリジャがすべてを言い終わらないうちに、オルタンスの部屋へ、早足で誰かが駆けつけてきた。
「……だれ?」
「殿下、こちらにおられましたか」
禿げ頭の壮年の男性が、自らの冠を小脇に抱え、あたふたと額の汗をぬぐっていた。右大臣のカルフィヌスという男だ。
オルタンスの肩に手を添えると、エリジャはカルフィヌスの方を向いた。このときになってはじめて、オルタンスはエリジャの目元が、薄い隈に覆われていることに気づいた。自分と同じように、あるいは自分の想像以上に、姉も弱っている――。そのことを知って、オルタンスは自分の足場が崩れていくような、宙に浮いたような気持ちにさらされた。
「身なりを整えなさい、右大臣」
カルフィヌスの様子に、エリジャは眉をひそめている。
「いかなる事態であるとも、この王宮で冠を脱ぐことは承知しません」
「は、し、失礼いたしました」
カルフィヌスは取り乱しながら、慌てて冠をかぶり直す。右大臣のカルフィヌスは、歳で言えばサリマン王と同じくらいなのだから、エリジャなどは娘同然のはずである。それなのに、こうしてエリジャとカルフィヌスが並べば、エリジャの方がはるかに威厳があり、落ち着いているように、オルタンスには思えた。
「殿下、玉座の間へお出でくださいませ。家臣たちが――」
カルフィヌスがすべてを言い終わらないうちに、誰かの足音が、それこそつむじ風のように、扉の向こうにある廊下から巻き起こった。
「であえ、であえーっ! 国王ご逝去――国王ご逝去!」
伝令兵の叫び声が、王宮をいっそう震わせる。
「新国王、エリジャ陛下、万歳!」
「行かなくちゃ――」
エリジャのささやきが、オルタンスの耳にも届く。
「おねえさま……?」
「心配しないで、オルタンス」
オルタンスの側に膝をつくと、エリジャはオルタンスの両肩に手を添えた。
「ほんの少しのことよ。すぐに終わるから――」
「さ、殿下、こちらへ」
「私のことはいい。ひとりで行けます。どうぞオルタンスを連れていって」
エリジャはそう言うと、背筋をまっすぐに伸ばしたまま、扉を開け放った。
「エリジャ様は、エリジャ様はどこに――?!」
「諸賢、私はここにいる」
エリジャの鋭い声に、歓声が上がった。複数の貴族が周囲に殺到したために、エリジャの姿はあっという間に見えなくなる。
「さ、お姫様、おいでください」
「お姫様」という物言いにむっとして、オルタンスはカルフィヌスを見上げた。しかしカルフィヌスは、「子ども扱いしないでほしい」というオルタンスの真意が見抜けなかったらしい。カルフィヌスはただ首を傾げたまま、オルタンスに手をさしのべるばかりだ。エリジャの前ではたじたじになっていたこの右大臣も、いざ自分だけになると、オルタンスを軽くあしらう。
(私も、おねえさまみたいに――)
さしのべられた手を取らず、オルタンスは扉の向こう側へ出ようとする。カルフィヌスは面食らったようだが、オルタンスの少し前を歩きながら、オルタンスを玉座の間の二階へと案内した。