(逃がしたか――)
サイファがいた辺りを、ヒスイは見つめていた。そこにサイファの姿はない。代わりに、黒い砂のようなものがうずたかく積まれている。砂鉄か何かだろう。
サイファは、初めからここにいなかったのだ。砂鉄で自分の似姿を作り、ここまで派遣したに違いない。「本体」はきっと、ヒスイのまだ見ぬ王都にいるはずだ。
「ハァ、ハァ……」
ようやく身を起こすと、エバが自分の髪の毛を手で梳いた。エバの体は、土ぼこりで真っ白になってしまっている。
目を閉じているセフの体が、宙に浮く。――正しく言えば、セフの身体は持ち上げられていた。
「ふーむ。息はあるようじゃの」
セフを持ち上げた人物が、神妙な表情で呟いた。口調の古めかしさにもかかわらず、その人物は若い女性だった。少なくとも、ヒスイと一回り程度しか歳が離れていないように見える。緑青色の丸い瞳を持ち、腰にまで伸びる赤茶色の髪の毛をしていた。そして赤っぽい、丈の長い衣を身にまとっている。
反対側の手には、金棒が握りしめられている。いったい、どこからあれだけの力が出るというのだろう? そう不思議に思えてしまうほど、女性の腕、肩は細かった。
おそらくは人間なのだろう。
いや、人間ではないのかもしれない。
なにせ、女性の頭には、黒い角が生えていたためだ(うち、右側の一本は半ばで砕けている)。
「こりゃ、ヒスイ!」
「あ、はい」
「この、おばか! まったく、勝手に抜け出しおって。妾が来ておらんかったら、今頃闇に呑まれてひょろひょろの麺みたいになっていたかもしれんじゃろ?」
「す、すみません」
とりあえず、ヒスイは謝っておく。それに対して、角の生えた女性は目を白黒させていた。
「何じゃ、ヒスイ。やけに素直じゃな。……なんか企んでおるじゃろ?」
「あの……イェンさん」
一部始終を聞いていたエバが、堪らず女性の衣の裾を引っ張った。どうやらこの人物は「イェン」という名前らしい。
「その……今のヒスイ、記憶が無いんです」
「なんじゃと?」
「――うっ?!」
言うなり、イェンは金棒を置いてヒスイの襟を掴む。いや親指と人差し指だけだから、「つまんだ」という表現のほうが正しい。
そうしてヒスイをつまんでおきながら、イェンはヒスイの瞳を凝視する。
「むーん。そうには見えんのう」
「そう……思いますよね? でも、真実なんです」
「――閣下!」
堂の扉が開いたかと思うと、外から続々と兵士がやってくる。服の色は黒かったが、形状からしてイェンのまとっているものと同じだった。
兵士の中でも隊長と思しき人物が、イェンの前に進み出る。
「泰日楼、ならびに予章宮の消火活動は終了しました。氓も翩も、あらかた片付いております」
「そうか、ご苦労さんじゃ。好好」
ヒスイを摘み上げたまま、イェンは答える。
「して……そちらの方は」
「ヒスイじゃ」
「あっ……!」
「ヒスイ」の名を聞いた途端、隊長が驚きの声を上げる。それからすぐにひざまずいた。部下の兵士もそれにならう。
「お目にかかれて光栄でございます。ヒスイ様」
「あ、ありがとう……」
ばつが悪すぎたため、ヒスイは視線をわざと反らした。
「ま、とりあえずはめでたしじゃ。泰日楼の外れに、野営を張るように、――あ、あとそれからの、ヒスイのことは内緒にしておくのじゃ。いろいろと面倒なことに巻き込まれそうじゃからの」
「は、直ちに!」
兵士たちは敬礼すると、すぐさま外へ飛び出していった。
「さて、と……。記憶が無いとなると、どうしたもんかの」
「うーん、自我介紹からじゃないですか? あたしもそうしましたし」
「じゃな」
エバとやり取りを交わすと、イェンは改めてヒスイに向き直る。
「そんなわけで、初めまして、かの。妾の名前はイェン。海炎と申す」
「ハイ・イェン――」
「そうじゃ。今は国従の一人として将軍をやっておる、――と、まぁこんなわけじゃ。なんかエバのほうからつけたしたいことはあるかの?」
「ヒスイ、あのね、イェンさんはヒスイのお母さんみたいなものなのよ?」
「私の……お母さん?」
「そ。育ての親、ってところ」
「さようじゃ、ヒスイ」
エバの付けたしを受け、イェンは神妙な面持ちで頷いてみせる。
「お主の本当のお母さんから頼まれて、妾はお主のお母さんの”代わり(イェンはこの言葉を特に強調した)”をやったのじゃ」
「お母さん……」
その単語を、ヒスイは口のなかで反芻するように呟く。それに対して、イェンは困ったように自分の左の角を撫でた。
「いや、まぁ面と向かってヒスイに『お母さん』呼ばわりされると、妾もちょっとこっぱずかしいんじゃが――」
「いや、そういうことじゃなくて。――イェンさん、私のお母さんについて大事な話があるの」
「大事な話……じゃと?」
「そう。事情を知っている人とだけ、詳しく話したい」
「ふーむ」
イェンは考え込むそぶりを見せた。その合い間に、ようやくヒスイを地面に下ろす。
「……まぁ、そうじゃな。それが筋ってもんじゃろ。情報の共有が大事じゃ。……とりあえず、野営に戻るかの」
言うなり、イェンはエバの体に腕をまわした。
「あっ! ちょっとイェンさん?! セクハラですよ、セクハラ!」
「いいじゃろ別に。女同士なんじゃから」
右腕に気絶したままのセフを、左腕にじたばたしたままのエバを抱えると、イェンはしゃがんでヒスイに背中を向けた。
「ほれ、ヒスイ。背中に捕まるのじゃ」
「イェンさん、何するつもり」
「飛んで野営まで帰るのじゃ。そのほうがはやいじゃろ」
「ひーっ……」
イェンの発言に、エバがか細い悲鳴を上げる。
「『ひーっ』じゃない。ほれ、掴まるのじゃ。よし、行くぞ!」
ヒスイが掴まったのを確認すると、イェンは掛け声と共に駆け出した――いや、跳んだといったほうが正しい。ヒスイの視覚は一気に揺さぶられる。
堂の天井に空いた穴を抜け、急速に寺院が後ろへ下がってゆく。急流に呑まれてゆく落ち葉をヒスイは連想してしまった。もう見ないことにする。
目を閉じた後に感じるのは顔に当たる強い風と、自分がイェンの身体にがっちりと掴まっているという感触と、エバの悲鳴と、イェンの心臓から伝わる強い鼓動だけだった。