「エリジャ様、……さぁ、目を開けてください」
アースラに促され、エリジャはそっと目を開いた。肌に感じる空気の冷たさから、覚悟はできていたのだが――。
「……着いたのね」
「ええ」
眼下で豆粒のようになっている王都を見るだけで、エリジャは足がすくむ思いだった。アースラの魔力の助けを借り、エリジャは宙に浮く王宮へと転移(ワープ)したのだ。
昼間だというのに、王都はところどころが赤く点滅していた。サウルが強引に王宮を空へと持ち上げたせいで、火事が発生しているのだろう。
「ロオジエが止めてくれるといいんだけど……」
「――かれを信じましょう。さぁ、こちらです」
アースラに促され、エリジャも王宮の中へと足を踏み入れる。門をくぐると、二人は無言のまま、玉座の間へと急いだ。王族の挙式は、玉座の間で行われることが通例となっていたためだ。
三年ぶりに足を踏み入れる王宮は、エリジャの記憶と何一つ変わっていなかった。窓に嵌められた金の細工も、べっ甲であしらわれた調度も、廊下を飾る照明も。ただエリジャとアースラとだけが変わってしまっていた。
「あぁ、懐かしい……」
玉座の間へと向かう道すがら。中庭に目を向けたエリジャは、そこで思わず声を上げ、立ち止まった。
「覚えている、アースラ?」
腕を伸ばすと、エリジャはイチジクの木を指さした。
「あそこの木でよく遊んだわ。そんなに昔の話でもないはずなのに……どうしてだろう……とても遠い昔のことのように思うわ……」
「エリジャ様……」
先を進んでいたアースラが、中庭の光景に目を奪われているエリジャのために、少しだけ戻ってくる。
「お懐かしく思う気持ちは分かります。ですが、先を急ぎましょう。さもないと……」
アースラは最後まで言い切ることができず、突如胸を抑えた。
「アースラ?! どうしたの?!」
「いえ……なんでもありません。エリジャ様……!」
突然、アースラがエリジャの腕を掴んだ。
「アースラ?」
「エリジャ様……!」
赤い瞳を熱くたぎらせながら、アースラがエリジャの正面まで迫ってきた。
「どうしたの、アースラ?! しっかりして――」
「エリジャ様! ああ、ダメだ――!」
次の瞬間、アースラはエリジャのことを強引に押し倒すと、エリジャの唇を自身の唇で塞いだ。
「アースラ……やめて……苦しい……!」
「エリジャ様……! エリジャ様……」
嫌がるエリジャを貪るようにすると、アースラはエリジャの服をまさぐり、乳房に爪を立てた。
アースラを引き離そうとしたエリジャだったが、ここにきてアースラの瞳に光がないことに、エリジャもやっと気づいた。
「どうしたの、アースラ……?! お願い、自分に負けないで……!」
「ああ。エリジャ様! 苦しい!」
アースラがもだえた瞬間を逃さず、エリジャは腕を伸ばすと、アースラの細い喉元に手をあてた。アースラの顔が、苦痛にゆがむ。
(あ……)
そんなアースラの様子を見て、エリジャもふと我に返った。エリジャは今、必死のあまりにアースラを殺しかけている。しかし本当にエリジャがやりたいのは、そんなことではない。
エリジャはサウルを倒し、オルタンスを救いたい。そしてオルタンスを救うのと同じように、アースラも救いたい――。
「わかったわ、アースラ。ゴメンね」
アースラの喉から手を離すと、エリジャは代わりに、アースラの身体を抱きしめた。
「いいわ、アースラ。好きにして。私を犯したいというのなら、そうして」
「え、エリジャ様……」
「私は大丈夫よ」
自らのはだけた乳房に顔をうずめ、嗚咽を漏らしているアースラの肩を、エリジャはそっと撫でた。
「……アースラにされるなんて思ってもみなかったけど」
「エリジャ様……うっ……」
そのとき、アースラが突然腕を振り上げ、エリジャの身体から離れた。
「アースラ!」
アースラの握りしめているものを見て、エリジャの全身に鳥肌が立つ。エリジャが懐に隠していた短剣を、アースラは抜きはなったのだ。
「エリジャ様、しもべをお赦しください――」
止める暇は、エリジャに残されていなかった。突き立てられた短剣が、アースラの喉に穴を開ける。血がほとばしり、宮殿の白い壁にしぶきがこびりついた。
「アースラ!」
エリジャが叫んだ頃にはもう、アースラは床に倒れ伏していた。アースラは、自らの喉を真一文字に切り開いていた。エリジャが抱きかかえると、傷口からアースラの首が垂れ下がり、動脈から溢れた血が、アースラの首を真っ赤に染めた。
「ああ、アースラ……そんな……」
だが、エリジャがすべてを言うことは許されなかった。目もくらむような光が解き放たれたかと思えば、次の瞬間、アースラの身体から黒い稲妻がほとばしったためである。
「うっ……?!」
とっさに頭を庇うと、エリジャはそのまま後ろへ飛びすさった。おそるおそる目を見開いてみれば、周囲は闇に閉ざされている。
(いったい何が……?)
剣を抜きはなつと、エリジャは闇の中に目を凝らした。
暗く閉ざされた冷気の向こう側から、何者かがこちらへ近づいてくる。
「誰……?! サウルなの……?!」
エリジャがそう口にした矢先、車輪の転がるような乾いた音が、暗い廊下の中を不気味にこだました。そして闇の中から、一人の人物が姿を現す。
その人物の異様な姿に、エリジャは息を呑んだ。少女は白い髪に、白磁のような肌をし、太陽のようにぎらついた金色の瞳を持っていた。何より不気味なのが、少女の全身に風車が刺さっていることだった。
少女の風車は、風もないのに回転し、音を立てていた。今しがたエリジャが耳にした音も、この風車が奏でる音だったのだ。
少女は、エリジャには一瞥もくれなかった。その代わり、少女は足下に横たわっているアースラの亡骸を、踵で踏みつけた。
「生から逃げようとするとは、愚かな」
そう呟いた少女の声は、老人のような声だった。王家に伝わる古い言い伝えを思い出し、エリジャの額を冷や汗が伝った。
「あなたは……ヂョゼ?!」
「いかにも」
賢者ヂョゼ――この世界を創り上げたとされる、双子の賢者の妹――は、アースラの亡骸を踏みつけたまま、エリジャに答えた。
「ヂョゼ……アースラをどうするつもり?!」
「どうもしない。このしもべは生から逃げようとした。ただそれを見にきただけ」
ヂョゼの身体にある風車が、また音を立てて回った。
「しもべですって……!」
「さよう。アースラは私の奴隷」
「――そんなのウソよ!」
「これはアースラが望んだこと」
ヂョゼは大きく首を傾げながら、エリジャに答える。
「生も、生から逃げることも、想像上の解決にすぎぬ。このしもべにはそれが分からぬ。エリジャよ、遠からぬ未来に、お前はこのしもべを殺すだろう」
「何ですって……?!」
エリジャは思わず身震いした。
「さもなくば、しもべはお前を殺すだろう。しかし、いずれも同じこと」
「……そんなことさせない」
「そうか? それも良かろう」
きびすを返すと、ヂョゼは闇の向こうへと引き下がってゆく。
「ヂョゼ、どこへ行くつもり?!」
「――お前たちのずっと近く。あまりにも近すぎて、お前たちには永遠にたどり着くことのできない、そんな近く。エリジャよ、お前はお前のかなしみをかなしめ。そして、お前の死を死ね――」
「待ちなさい……!」
ヂョゼを追いかけるために、エリジャが駆け出そうとした矢先、不意にエリジャの足下から、咳き込む声がした。
「……アースラ?!」
エリジャは目をみはった。横たわっていたアースラが、咳き込みながら涙を流していた。首にあったはずの傷は、跡形さえなくなっている。
「アースラ、無事だったのね?!」
「し……死ねない……」
アースラの上半身を起こすと、エリジャはアースラに抱きついた。エリジャに抱きかかえられたまま、アースラはずっと泣いていた。
「エリジャ様……私を……私を……殺してください」
「バカなこと言わないで、アースラ」
震えるアースラの肩を、エリジャはそっと抱き寄せる。ふと顔を上げてみれば、周囲の闇は晴れ、ヂョゼの姿は消え去っていた。
――遠からぬ未来に、お前はこのしもべを殺すだろう。
――さもなくば、しもべはお前を殺すだろう。
ヂョゼの言葉が、一瞬だけエリジャの脳裏をよぎる。それでもエリジャは、その言葉に自分をふるい立たせ、その言葉と対峙しようとした。
「あなたを誰にも殺させやしないわ。たとえ自分自身であっても……」
二人はそのまま、王宮の最深部へと進んでいった。