第1話:黄色い車(Желтый автомобиль)

―― なんじ 最大 いとひろ 権能 ちから 授けられたるなり。は測り難きを測り、救われ難き爾を救済すくいいたらしめんとするためなり(あなたには大いなる力が与えられている。それは理解不可能なものをあなたが理解し、あなたがあなた自身として救われるためである)。

『アロゲネス』、第63節

「ああ、参ったな……」

 方位磁針と地図とを代わる代わる見つめると、少女はため息をついた。目線を上げれば、その視界はたちどころにして、薄い煙に覆われてしまう。正面にある車の機関部分から、黒い煙が噴き上がっているせいだ。

 修理のためのハンドブックを片手に、人気のない国道の真ん中で車と格闘し始めてから、かれこれ二時間が経過した。その間に分かったことといえば、「車のベアリングが完全におかしくなってしまっている」ということだけだった。

 何もかもが嫌になって、少女は荷物を放り出すと、アスファルトの上に寝そべった。少女の周囲に、人の姿はない。もっとも、ここは熱帯雨林を強引に切り開いて作った国道であるため、人がいないのは当然のことであった。ガードレールを一歩でも踏み越えようものなら、その先は亜熱帯の陽射しを受けて たくま しく生い茂った木々と、それに群がる生物たちの 聖域 シイティリシェ である。

 少女の履いている ブーツ の、右足の爪先に、ルリマダラが止まった。深く呼吸をして、胸を上下させながら、少女はルリマダラをじっと見つめる。

 この少女は、名前をニフシェ、といった。紺色の瞳を持つニフシェは、夜空の星のような銀色の長い髪を、頭の後ろで一房に束ねている。

 しばらくの間、ニフシェは頭を冷やすために、アスファルトを背にして空気の臭いを嗅いでいたが、ようやく現実を直視する勇気が沸いてきたため、上半身を起こした。爪先に止まっていたルリマダラが驚いて、ニフシェから離れていく。

――ニフシェ・ダカラーよ、西の都・ウルトラへ赴き、”竜の娘”を確かめなさい。

 シャンタイアクティの 巫皇 ジリッツァ から、ニフシェが”星命”を賜ったのは、今から一週間前のことになる。車を借り、シャンタイアクティの都を抜けたのが六日前。それから今日まで、ニフシェはずっと車を走らせてきた。

 ニフシェの目指す街”ウルトラ”は、大陸の西側に位置している。一方、”シャンタイアクティ”の街は、大陸の東側にあった。遠い昔、まだ「車」が無かった時代には、シャンタイアクティからウルトラまで向かうのに、片道で一ヶ月かかったという。

 ――一ヶ月?

(待てよ――)

 急な不安に襲われたニフシェは、ここで指折り数えてみた。ニフシェは今、シャンタイアクティ領の西端に位置する”ヴィジャヤナガール”という州で立ち往生している。このヴィジャヤナガール州は、シャンタイアクティ市とウルトラ市の、丁度中間に位置していた。

 到達度は半分、歩きで一ヶ月の距離を半分にすると――

「二週間?!」

 結論にうろたえるニフシェの長い髪を、一陣の冷たい風が撫でる。

 ヴィジャヤナガールほどの僻地になると、まだ現代化の行き届いていないところも多い。道路が舗装されていただけ、ニフシェは感謝していたくらいだった。恵まれた環境は、長くは続かない。この舗装された道路も、ゆくゆくはラテライトの赤茶けた土壌に呑み込まれてしまうだろう。更に進めば、密林はその濃さを増し、地表はみな緑に覆われ、後はただ、照りつける太陽と、唸る蚊柱と、自生するバナナの木と、それに群がる昆虫や、それらを食べる小動物たちの縄張りになる。これから先ニフシェは、手つかずの自然から洗礼を受けながら、ウルトラまで向かわなくてはならない。

 問題はそれだけに止まらない。

「まずい……」

 空気の冷たさに異変を感じとったニフシェは、頭を上げて空を睨んだ。視界を横切るようにして、黒い雲が――車から吹き上がる黒い煙ではなくて、正真正銘の黒い雲が――空を塗り潰しはじめている。雲はじきに、一気に膨れあがって、地上の熱気を舐め取るようにして垂れ下がってくるだろう。

 地図と方位磁針とを懐へ押しやると、ニフシェは車の中へ戻り、窓とドアを入念に閉める。間もなくして、最初の雨粒が地上で弾けた。雨粒は大きくなり、雨脚はにわかに強くなって――周囲を暗く閉ざす。

 空から落ちてくるのは、” 黒い雨 ドーシチ ”である。

 旅の障害は、亜熱帯に特有の環境ばかりではない。大陸に突如として降り始めた”黒い雨”もまた、大陸に生きる人びとの生命を、容赦なく削っていた。

 大陸は東西南北の、四つの領域に分かれている。東のシャンタイアクティと西のウルトラの他に、北にはチカラアリ、南にはビスマーという都市があり、やはりそれぞれに巫皇ジリッツァがいる。

 高地に位置し、雨量の少ないビスマーを除き、北、東、西の三領域が”黒い雨”に見舞われた。大陸で最も古く、最も強力なシャンタイアクティの都は、文字通り「降って沸いた」この災厄にも耐えることができた。昔者いにしえの戦争の名残で、島の上に建設され、かつ大城壁に覆われているウルトラもまた、組織としての機能を保っているという。

 激甚な被害を こうむ ったのは、チカラアリの都だった。チカラアリ領の都市は壊滅しており、復旧の目途は立っていない。最初の”黒い雨”が降る直前に、チカラアリの 巫皇 ジリッツァ が急逝していたことも、混乱に拍車をかける一因だった。

 座席で 胡坐 あぐら をかくと、ニフシェは目を閉じ、自らの呼吸に意識を集中させる。”黒い雨”が降ると、周囲は闇に閉ざされる。雨が作り出す闇よりは、瞼を閉じることで作り出す闇の方が、ニフシェは好きだった。

 亜熱帯地域の雨が、「雨」として降っていられるのは、降りはじめの時だけだ。時間が経つにつれ、雨は滝のようになり、世界全体を呑み込んでしまう。

「ふうーっ……」

 ふと思い立ったニフシェは、 背嚢 ランドセル を手探りし、中から懐中電灯を取り出した。電灯の明かりを頼りに、ニフシェは窓に貼り付けておいた数枚の写真を眺める。

 写真に映り込んでいるのは、白衣に身を包んだ男の集団と、その背後に控えている戦車だった。

 これらは皆、”こちら側の大陸”のものではない。海峡を挟んだ北側の大陸には、一つの帝国があった。”黒い雨”の混乱に乗じ、この帝国の軍隊が、南の大陸を浸食しているという話を、ニフシェは耳にしている。無主の地であるチカラアリは、もはや完全にかれらの占領地域となっているという話もあるが、ニフシェも含め、その全容を把握している人は誰もいなかった。

 それどころか、これからニフシェが向かう予定のウルトラでさえも、その街の様子を正確に知っている人間はいないのだ。それでも、ニフシェはウルトラへ向かわなければならない。問いは、ここで一巡する。

(”竜の娘”か……)

 心の中で、ニフシェは呟いた。この大陸には、魔法を使うことのできる女性が少なからず存在する。それらの魔法は、みな動物としての属性を備えている。”鷹”の属性、”豹”の属性、”鯱”の属性……。

 ニフシェがウルトラを目指すのは、そこに”竜”属性の魔法使いがいるためだ。

ドラクォン ……」

 ニフシェが予感めいたものを察知したのは、一か月ほど前のことだった。「何かすごいことが起きる」という、かつてない高揚感が、”黒い雨”で 憔悴 しょうすい しきっていたシャンタイアクティの魔法使いたちの心を吹き抜けたのだ。真っ先に予感を感じとったのは、シャンタイアクティの 巫皇 ジリッツァ だった。

 魔法使いの予感は、大抵の場合当たる。――それも巫皇だけではなく、ニフシェも含めた高位の魔法使いが皆そう感じたのだから、尚更であった。

 しかし、自分たちが何を予感したのかについての意見は、魔法使いたちの間でも一致しなかった。皆の意見を集約した結果、それが”竜”の魔法使いであるという結論に至ったときでさえ、大半の魔法使いたちは半信半疑だった。全ての想像を現実に置換し、生命の輪廻を超越し、空を泳ぎ、海を飛ぶ、 楽園 バルベーロー の守護者にして、 王国 アイオーン の忠実な しもべ 、それが”竜”である。その属性の魔法使いは、かねてからずっと伝承の中でのみの存在だった。

 ウルトラへ向かえば、ニフシェは”竜の娘”に会えるかもしれない。会えないかもしれない。

 薄暗い車内を、外からの光が照らした。”黒い雨”は一時的なものだったらしく、雲間からは太陽が顔を覗かせはじめた。

「よいしょ、っと――」

 ニフシェは車の外へ出た。狭いところでじっとしているのは、ニフシェの性に合わなかった。

「ふあーあ……」

 鬱屈をごまかすために、ニフシェは強く目をつぶった。いきおい、ニフシェはいつにも増して耳を澄ませることになる。

――一人目の天使のアトートは、大いなる世代がセツと呼ぶ人……

 ニフシェの耳が、人の声を拾った。

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