扉を抜けた先に広がっていたのは、巨大なドームだった。地面は黄土色のタイルに覆われ、王座の間と呼んでも差し支えのないような、粛然とした雰囲気が包んでいる。
駆け込んだヒスイは、肩で息をしながら、ドームをくまなく見渡してみる。ドームは薄暗かったが、天井が高いために、ヒスイの視界でも全貌が把握できた。ヒスイのちょうど正面は、数段高くなっている。その中央には、古ぼけた玉座があった。
「出てきなさい、イスイ!」
玉座に向かって、ヒスイが声を張り上げた。イスイ、イスイ、いすい――。ヒスイの声がこだまして、ドーム全体に鳴り響く。玉座まで、一歩、また一歩と、ヒスイは歩みを進めてゆく。
ヒスイが叫んだところで、玉座は空っぽのままだった。それでもヒスイは、叫ばずにいられなかった。
「イスイ、正体をご拝見! ――出てきなさい」
途中からヒスイの声はかすれ、嗚咽が混じりはじめる。心にこみ上げてくるものが大きかった。いつしかヒスイは膝に手をつき、玉座の間の中央で立ちすくんでいた。
「出てきて……私と闘うのよ」
うなだれたヒスイの目から、涙が一滴だけ零れる。
「おねがい……カケイさん……」
「――大賢者様がどうしたの?」
前方から響いた声に、ヒスイが顔を上げる。眼前の光景を信じきれずに、ただただ目を瞠った。
誰もいなかったはずの玉座に、蜃気楼のごとく現れた人影――それはキスイだった。
「キスイ……?」
問いかけながらも、ヒスイは半信半疑だった。ヒスイの銃撃を喰らい、キスイは粉々に砕けたはずだった。
「フフフ、ごきげんよう、ヒスイ」
そんなヒスイの疑いを打ち砕くかのように、キスイは立ち上がると、ヒスイの側まで寄った。キスイの黒髪はごく自然に靡き、キスイの影は黄土色のタイルに投じられる。
しゃがみ込んでいるヒスイに対し、キスイは手を差し出した。ヒスイはその手を掴み、立ち上がる。
「キスイ、あなたはさっき……」
「あれくらいで死ぬ私じゃないわ。ヒスイ、ちょうどあなたが地Qで死ななかったのと同じよ」
そう答えると、キスイは無邪気そうに微笑んでみせた。浴びたはずの銃撃の後は、影も形もなかった。
「あと、大賢者様はここにいないわ。あなたたちが考えているのは、まったく的外れなことよ。ヒスイ、本当はあなただって信じてはいないはず」
「じゃあ、イスイは――」
「イスイなんていないわ」
姉の言葉を遮るようにして、妹は強く言い放った。冷徹を極めるキスイの眼差しに、ヒスイはただ見つめ返すばかりだった。
「――“いない”?」
諭すようにして、ヒスイはキスイの言葉を繰り返す。
「ええ。イスイなんていない」
ヒスイの手を放すと、キスイは玉座までの階段を登る。ヒスイの目の前で、キスイはもう一度玉座に座って見せた。
「イスイなんて存在しないのよ。はじめからずっと、私とあなたが闘い続けていた。イスイと呼ばれる虚構が再生産され続け、私たちはそれをただただなぞって、歯軋りをしていただけ」
狂言じみたキスイの口調が、ヒスイを正気に戻させた。
「そんなことはあり得ないわ、キスイ」
「いいえ、ヒスイ。私がこの世界計画の首謀者よ。剣聖も、大賢者も果たし得なかった高みに、今の私たちはいる。世界に祝福される側から、世界を祝福する側に立ったのよ。……分かるでしょう、ヒスイ? 私の言いたいことが」
玉座の壇上まで、ヒスイもやってきた。それから一旦、ヒスイは後ろを振り向いてみる。ここは玉座の間。玉座以外には何もない。その空虚さに、ヒスイは唾を呑み込んだ。
佇むヒスイに、キスイがそっと手を伸ばした。
「ヒスイ、私に銃をちょうだい」
キスイのほうを振り向くと、ヒスイは目を細める。
「どうして?」
「銃の自我よ」
キスイは肩をすくめる。
「銃の自我があなたに流れるせいで、私の波長があなたに届かない」
(そんなことが――)
握りしめた銃を、ヒスイは見つめなおした。銃の闘争本能が、キスイの洗脳を寄せ付けなかったのだ。あれほどヒスイを苛んできた勇者からの遺物が、土壇場になってヒスイをすくっていたのだ。
「ヒスイ、私はあなたを支配するつもりなんかないわ」
玉座から立ち上がると、キスイはその席をヒスイに勧めた。
「あなたに協力してほしいの」
その言葉に返事をせず、ヒスイはキスイを見つめた。
「私の世界計画は完成に近い。――“竜の瞳”を使って、私はすべての人に私の意識を流しているの。全人類が意識を共有することで、この世界は一つの有機体になる。理想郷土が、もうあたしたちの目前まで迫っているのよ。哲人の成し遂げられなかった理想が、あと一歩で現実になる! 私は私の世界を誤りたくない。でもヒスイ、あなたなら大丈夫。私の理性があなたの野性を補い、あなたの天性が私の悟性を助ける」
熱に浮かされたようなキスイの言葉に、ヒスイはただ耳を傾けるのみだった。
「どう? 協力してくれる?」
ふたたび、キスイが手を差しのべる。
ヒスイは、その手を取らない。
「ヒスイ――」
眼前に掲げられた銃の矛先を、キスイは猜疑の眼差しで睨みつけた。
「どうして?」
「キスイ、誤魔化しちゃダメ」
「誤魔化す? 私が?」
「そうよ」
キスイの眉間に照準を合わせたまま、ヒスイが答える。
「あなたの作りたい世界は、本当は世界なんかじゃないわ。あなた自身の弱さを焼きなおしているだけ。それでは何も変わらないの。闘いは終わらないわ」
「ヒスイ、これが最後の戦いになるのよ」
「いいえ。ならない」
キスイの言葉を、ヒスイははっきりと打ち消した。
「あなたの理想郷があなたのものになった後も、あなたはそこで闘いを知るわ。人間がただ息をするためだけに生きているのなら、その理想郷は人間の住むところじゃないわ。楽園は人から押し付けられるものじゃないの。人間が、自分で見つけるものよ。そして見つけるためには――人は自分の闘いを闘わなくちゃダメなの。キスイ、闘うことから逃げちゃダメ」
「ヒスイ、私の作り上げた楽園は普遍よ。私の裡は楽園だし、私自身も楽園なのだから」
「己の死を死ね(メメント・モリ)よ、キスイ。あなたの望む世界にはあなたしかいない。――それは“あなた”自身もいない、ってことなの。私はあなたが分からない、あなたも私が分からない。だからお互い、自分のできる範囲で楽園を広げようとする。私たちが見ている現実は、人と人とがせめぎあって、闘いあって、爆発する……自分が自分自身であるために、永遠に続く黎明なのよ。その混沌が――その混沌こそがほんとうの楽園よ。本当の世界よ。キスイ」
言い終えると、ヒスイは再度銃を強く握り締めた。
「だから、私は銃をとる。私は、あなたの世界を望めないから」
ヒスイの言葉を聴き終え、キスイは一旦後ろを向いた。二、三歩ほどヒスイから離れると、キスイは両手を後ろに組んで、何かを考えている様子だった。やがて考えがまとまったのか、キスイはもう一度ヒスイを見据えた。
「ねぇ、ヒスイ。一つだけ私に質問をさせて」
ヒスイはそれに答えない。だが、キスイを拒むこともなかった。キスイはそれを、ヒスイの了解と受け取めた。
「ヒスイは、人間が好き?」
……
……
「嫌いよ。でも、でもね――」
……
……
「でも、愛してる」
言い終えると、ヒスイは悪戯っぽく微笑んでみせた。ヒスイの言葉に、キスイは心底驚いた様子だった。それからため息をつくように息を吐くと、キスイも笑みを零してみせた。
「フフフ……何でだろう? ヒスイならばそう言うと思った……今までだって、ちゃんと会ったこともないのに」
「そうね……もっとちゃんと、二人で話をしたかったわね」
この言葉は、ヒスイの本心から出てきたものだった。
「でも……ヒスイ、分かっているでしょう?」
ヒスイが構えた銃の前に、キスイは右手をかざす。
「私は後に退かないつもりよ。だから、これを最後の闘いにしましょう? お互いにとっての、ね――」
「――待った!」
「――待って!」
ヒスイが答えるより前に、玉座の間の入り口から声が響いてくる。エバとセフの姿が、そこにはあった。意識を取り戻してから、ヒスイのもとまで急いでやってきたらしい。
「あなたの好きにはさせないわ、キスイ! ヒスイの敵になるんなら、容赦しないわよ」
声を張り上げて、エバがキスイを読んだ。そんなエバに、キスイは羨ましそうに目を細める。
「ヒスイ――わたしも、わたしも一緒に闘う」
一歩遅れて、セフもヒスイに向かって呼びかける。ヒスイは顔をほころばせ、セフの呼びかけに応じる。
「……役者が全員揃ったようね」
そう呟くと、キスイは再び玉座に座る。今度は背もたれに背を預け、深く腰掛けている様子だった。
「これが最後の闘いよ、ヒスイ」
「ええ、分かっているわ、キスイ」
玉座全体が黒い光を放ち、キスイの体が大きく変化を始める。禍々しい空気があたりに立ち込め、集まった三人を取り囲んでゆく。
「私にとっても、あなたにとっても、ね」