2019年08月24日:「犬猿短歌」に見る詩的言語の創造、及び「草の三段論法」について

3.「二物衝撃」? ⇒「草の三段論法」!

 ところで、「二物衝撃による詩的飛躍に過度に依存しない」短歌とは、果たしてどのようなものが想定されるのでしょうか。筆者は短歌について詳しくないので、短歌に限らず、広く「創作」に置き換えて考えていますが、そもそもの問題として、詩的飛躍――それを担保する二物衝撃も含めて――を制限・支配して行う創作などというものは、それこそ不可能なのではないか、と思います。

 米国の文化人類学・精神医学研究者だったグレゴリー・ベイトソンは、フォン・ドマルスが精神分裂病患者の発話及び論理を分析した結果を「草の三段論法」として命名しています。

 これは、「述部が同じものを同一視する」という、精神分裂病者の思考様式を表したものとなっていますが、注目すべきは、この草の三段論法によって結び付けられた二つのもの(人と草)は、並立的な関係、より積極的に言えば、類似の関係性の中に取り込まれるというところにあります。

 「草の三段論法」について、原 章二・早稲田大学教授は、次のように述べています。

似ていることは上下関係を破壊する力を持っている。それは階層的な秩序を遡り、共通の祖型を見出すことによってはじめて確認されるごとき類縁性ではなく、もっと根源的な類似性、つまりものが単なるものではなく、つねに二重のものであること、世界がそのようにイメージとして原初から二重であることの発見である。

               (中 略)

詩を広義にとり、芸術一般にわたって二重性好みの例を捜し出せば、おそらく切りがない。レベルやジャンルを無視して言えば、反復・繰り返し、二重映し、リフレーン、中心紋(鏡)の技法、生き写し、双子、二重人格、自画像、自伝等々。そもそも、詩や芸術は単一のものではできない、なにかとなにかを折り合わせなければできない。いや、詩を書き、作品をなすということが、現実を二重化することなのだということになれば、もうなんでも言えそうである。

原 2013, p.236,238-9

 さて、上記の引用で主張されている「類似による二重性が創造の根底にある」ということは、「異なった二つの言葉を組み合わせることで斬新なイメージを生み出そうとする手法」である「二物衝撃」と軌を一にしている……と見なせるのではないでしょうか。

 また、このように考えると、「異なった二つの言葉」から類似性を看取しようとする鑑賞者の試みは、「創造物を受容する」という鑑賞者としての態度に沿ったものであるとも考えることができます。

 そして、このように「類似による二重性が創造の根底にある」以上、創作者ができることは「二物衝撃の技法を使う/使わない」というゼロサム的なことではなく、「二物衝撃の技法をどの程度意図して用いるのか」という程度の問題に収斂するのではないでしょうか。

 犬猿短歌のスクリプトは、ウェブサイト(https://web.archive.org/web/20160214070014/http://www17.atpages.jp/sasakiarara/)に公開されています。皆さんも、是非とも犬猿短歌を自動生成し、その解釈を通じて、創造の根底にある類似と二重性に思いを馳せてみるのはいかがでしょうか。

以  上


【参考文献】
原章二(2013)「人は草である―詩的言語について」、『人は草である』所収、彩流社